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4分間の読み物

SCジョンソン社の未来に創造力と科学の力を吹き込んだH.F.ジョンソン・ジュニア

「一部の判断は勇敢な人のためにある。」 当社3代目経営者H.F.ジョンソン・ジュニアの言葉は、SCジョンソン社の歴史に影響を与えてきた彼のさまざまな考え方を表しています。 

H.F.は化学者として研鑽を積んだ当社で初めての人物で、科学的な厳密性を当社の製品ラインに導入しました。彼は1935年にアマゾン探検を指揮し、それは最終的に「責任」というものに対する当社の考え方を変えました。彼は、フランク・ロイド・ライトに本社の設計を依頼するなど明確なビジョンを持った数々の決断をして会社を有名にしました。また、彼は人間の精神の尊厳を称えることに生涯を費やしました。  

彼は確実に勇敢な経営者でした。H.F.が及ぼした影響は現在のファミリーカンパニーにも残っています。

SCジョンソン社3代目経営者、ハーバート・ジョンソン・ジュニア

3代目経営者、‬H.F.ジョンソン・ジュニア

SCジョンソン社初の化学者、H.F.ジョンソン・ジュニア

ハーバート・F・ジョンソン・ジュニア、通称「H.F.」がまだ10代の頃、会社が床材の販売事業から幅広いホームケア製品事業へと拡大成長する姿を目の当たりにしました。特に、ストップ・スクイーク・オイル、ヘイスティ・パッチ、ラジエーター・セメントといった自動車関連製品は、一般家庭からの当社名への信頼獲得に一役買いました。

その後フリーズ・プルーフを販売しました。モデルTの自動車のラジエーターを保護するために開発された製品ですが、実際にはうまく機能しませんでした。1918年、SCジョンソン社は当社製品により壊れてしまった使えないラジエーター約500台の所有権を買い取りました。

1918年ジョンソンのフリーズ・プルーフのビンテージ広告
フリーズ・プルーフが500台のラジエーターを壊してしまった後、H.F.は化学を勉強するため大学へ入学しました。

当時の会社経営者、ハーバート・F・ジョンソン・シニアは、社内に化学者を配属する必要がでてきたことを認識していました。そこで息子のH.F.を科学の勉強のためコーネル大学に入学させました。1922年にH.F.は会社へ戻り、社で初めて修士号を取得した化学者となりました。 

彼は古びたオフィスビルのトイレに実験室を作り、会社の業務に研究開発という新たな視点を導入しました。それは決して揺らぐことのない責任でした。H.F.は生涯を通して、実験室および製造現場において製品の品質と科学技術の価値を守り抜きました。 
 
息子のサム・ジョンソンは回想します。「彼はジョンソン・ワックスにおける技術の祖でした。当社の事業は急速な技術の変化によりさらに成長し、彼がずっと以前に科学の道を敷いてくれたことに幸せを感じます。」

当社の事業は急速な技術の変化によりさらに成長し、H.F.がずっと以前に科学の道を敷いてくれたことに幸せを感じます。
SCジョンソン社4代目経営者、サム・ジョンソン

SCジョンソン社はH.F.主導で大胆な手段を講じた 

1928年、ハーバートは突如亡くなり、まだ28歳のH.F.に会社の経営が任されました。その後まもなく世界大恐慌が始まり、米国経済は大打撃を受けあらゆる企業がダメージを負いました。 
 
多くの会社が売上を落とし新製品から後退しました。しかしH.F.は力強く前進し、科学の力が大きな役割を果たしました。研究開発への投資によって推進力を得た会社は、革新的な家庭用磨きワックスGlo-Coatを開発しました。それは当社で最も人気の高い不朽の製品の1つになるであろうと見込まれました。  
 
まずは、人々に製品を試してもらわなくてはいけません。ここに、H.F.の勇敢さが決定的に重要な意味を持つ場が訪れます。彼は全米中の当社の小売店に、発注なしで約30万リットル分を出荷するよう指示しました。各店舗にはそれを販売するか、当社負担で返品するよう通知が送られました。 
 
しかし製品は驚くほど効果があり、全国広告によりすでに需要は拡大していました。会社の社史で、「大恐慌の最中、ピーナッツも売ることができない時代に、小売店はGlo-Coatを売り抜いた」と喜ばしい報告がされています。 
 
Glo-Coatの成功は、優れた製品は経済状況が芳しくない時期でも売れることを証明し、現在も続く研究開発への責任をさらに強化するきっかけとなりました。

ハーバート・ジョンソン・ジュニアは、世界大恐慌の最中SCジョンソン社のGlo-Coatで成功をおさめました。
特許技術と革新的なマーケティングで、Glo-Coatは床用ケア製品として空前の成功をおさめました。

SCジョンソン社の歴史は、H.F.ジョンソン・ジュニアの勇気ある決断と共にある

社として効果のある優れた科学に基づく製品を約束するだけでなく、H.F.はマーケティング上でも明確なビジョンを持ち、ジョンソンの名を品質、創造性、冒険と結びつけました。 
 
まず、ラジオ全盛期の時代に、人気ラジオ番組『フィバー・マッギー・アンド・モリー』のスポンサーになることを決めました。1930年代~40年代にかけ、当社と当社製品の広告をうまく織り交ぜたこのヒット番組のリスナー数は、1週間で最大2,000万人に達していました。 
 
その後、1935年にブラジル北東部への冒険が行われます。H.F.はそこで、会社製品に使用するブラジルロウヤシの新たな拠点と、ワックスの抽出・生成の新製法を開発するチャンスを探し求めました。彼は後に、この旅は自分の人生を変えたと述べています。 
 
その後、建築家、フランク・ロイド・ライトを雇いウィスコンシン州ラシーンのグローバル本社、そして後にリサーチタワーの設計を依頼するという大胆な一手を打ちました。『ライフ』誌は当社アドミニストレーションビルを、「真のアメリカ建築」であり、来るべき世界の物語であると称えました。H.F.にとってそれは、素晴らしい製品の原動力となる非常に優れたデザインでした。 

SCジョンソン社に偉大な使命を与えたH.F.

H.F.の最も勇気ある決断が下されたのは、おそらく1960年代初期でしょう。1964年、ニューヨークで開催されようとしていた万博での出来事です。  
 
産業紹介ホールで製品展示を行う他社とは異なり、H.F.は平和のビジョンと人間としての経験の尊厳を共有したいと考えました。その結果が、The Golden Rondelle劇場で上映されたアカデミー受賞作品『To Be Alive!』です。
 
しかしこれはH.F.のヒューマニズムの一例にすぎません。H.F.主導の下、1934年に年金制度、1951年に社員用保養所、1961年に総合医療保険を導入するなど、社員の福祉厚生を先駆的に整備しました。
 
サムはかつてH.Fについてこのように記述しています。「彼は個人の創造性の有益性と人間の尊厳を信じていました。またほぼ同様にコミュニティのことを考えていました。社員一同がそのことを理解できるよう、彼はよく『当社が関わるすべてのコミュニティは、そこに当社が存在しているゆえ、より良い場所になるはずです』と言っていました。」

ハーバート・ジョンソン・ジュニアによって、ブラジルのフォルタレザにブラウンスイス乳牛が寄贈されました。
ブラジルのフォルタレザの子供が新鮮な牛乳を飲めないことを知ったH.F.は、コミュニティに11頭のブラウンスイス乳牛を寄贈しました。
H.F.ジョンソン・ジュニアは1960年にエスコラ・ジョンソンを設立
1960年初期、H.F.は地元の子供たちのためブラジルにエスコラ・ジョンソンを設立しました。現在1,300名の生徒が通っています。
ジョンソンのGlo-Coat床用ケア製品
社史
3代目経営者:H.F.ジョンソン・ジュニア
1899 –
1978
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ファミリーカンパニーには冒険の精神が組み込まれている

H.F.の「インサイド・アウト」理論、すなわち、会社の外にあるコミュニティで健やかな環境を育まない限り、会社内を健やかな環境にすることはできないという考えを、当社は現在も共有しています。この考えは世界中で行っている当社の慈善事業やボランティア活動に活かされています。

H.F.は第一に実業家でありましたが、より深く定義するなら、彼は生涯を通して冒険家であったと言えます。新製品の発表、新たな広告戦略への挑戦、世界旅行など、H.F.は最高に充実した人生を送りました。 
 
映画『Carnaúba:息子が綴る回顧録』の中でサムは、「H.F.は日々の生活をちょっとした冒険のように送っていた」と述べています。もし彼が何も発見できないときは、引っ掻き回してでも何かを探すでしょう。 
 
この精神は、サムが父のブラジル冒険を1998年に改めて辿る1つのきっかけとなりました。この旅を通して、彼の父について、そしてすべての親が子供のために果たす役割についてより深く理解できるようになりました。 
 
サムが好んで言うように、偉大な会社には偉大な精神が必要です。H.F.は間違いなくSCジョンソン社に偉大な精神を植え付け、今日まで当社はそれを継承しています。 

マクドネル・エアクラフトでマーキュリー宇宙カプセルに乗るハーバート・F・ジョンソン・ジュニア
常に冒険心を忘れないH.F.は1960年代初期、マクドネル・エアクラフトのツアーでマーキュリー宇宙カプセルに乗り込みました。